第一部 「蠢動」  -  第一章 「政和三年春」

 (しょう)(とう)は銀の簪を手に握り締め南門坊の貸家に戻る途中だった。陽も西に傾きだし、酒楼の影も急にその長さを伸ばしつつある。太原府の瓦子、南のはずれだった。この近くには、太原府一の豪商()(かい)の邸宅がある。
 蒋唐は魯櫂をこころよく思ってはいなかった。品を仕入れる時には、脅すように安く買い叩くくせに、売る時は驚くほどの高値で押し付ける。蒋唐のような役人と繋がりのない商人には、とことん邪魔を入れる。それでも屈しない時は、子飼いのならず者を使って排除する。蒋唐は、闇に葬られた商人が少なくないことを知っていた。魯櫂は食客と称して、そうした者達を常時二・三十人かかえていた。府の役所はけして動かない。魯櫂にたっぷりと鼻薬を効かされているので、むしろ被害者の方を責めた。太原府で商いをするには、魯櫂の手の中に入るか、命をかけて自前の道を切り開くしかなかった。蒋唐は太原府の商人ではない。一年前までは、河間府でそれなりの店を持つ遼相手の商人だった。歳も五十を過ぎ息子も大きくなったので、河間府の店を任せ、静かに余生を送ろうとしていた矢先、女真の完顔阿骨打(わんやんあくだ)から太原府行きを依頼されたのだった。
阿骨打とは古くからの馴染みで、その人となりにも生き方にも好感をいだいていた。だからといって、この歳でそう簡単に他所の土地に移り住むと決めたわけではなかった。何かが蒋唐の背中を押した。今でもそう思っている。

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